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2008年11月04日 ()
先日から書いている牛久沼東沿岸の城跡に関する続々編。

 名称について二転三転している。最初はまったく地名が分からなかったためにとりあえず牛久沼の東側に位置するから「牛久沼東城」とした。直後に、その台地に馬場台という小字がある事を知り「馬場台城」に変更した。そこからさらに、「屏風ヶ崎城」へ変更しようと思う。その理由は以下に。

081104.jpg 『伊奈町史 史料編一』の「岡見集覧」という文書の中に牛久城周辺の城の配置図がある[左写真]。略図の上に現実の地形を鏡に映した鏡面対象になっているのは変なのだが、3つの[城跡]にそれぞれ以下のような当時の呼称が添えられている。[城跡]今新地ト伝(東林寺城と思われる)、[城跡]今城中ト伝(牛久城と思われる)、[城跡]今屏風ヶ崎ト伝(本件の城と思われる)、若柴の方(城跡とは書かれていないが八幡台城と思われる)。

0811042.jpg 3番目の城跡を以前は遠山城だと思っていたが、牛久沼にこれだけ特徴的に突き出して描かれているということから遠山城よりもむしろ本件の台地を指しているのかもしれないと考えるようになった。それは、本件の台地を沼側から見ると長い台地縁が見えるわけでまさに屏風の様に見えると想像できるからだ。遠山城を沼から見てもそうは見えないと思われる。さらに「今屏風ヶ崎ト云」が示している部分を沼面の東側一帯のことだと思い込んでいた(沼面上に書き込まれていたから)のだが、これはまさに3番目の[城跡]の呼称そのものだと気づいたというわけだ。

 ただ、「新地」、「城中」は現在も使われているが、「屏風ヶ崎」の地名は聞いた事が無い。若柴の旧家の方にもお聞きしたが知らないとのことだった。その理由を以下のように考える。もともと水際から屏風のようにそそり立っていた台地も次第に水辺から遠くなって行き、さらに6号国道や鉄道が通ると沼側から「屏風」のようには見えなくなってしまったのではないか。そうして、人びとの意識から「屏風ヶ崎」が消えてしまったと想像できる。ということは明治初期までに書かれたものであれば「屏風ヶ崎」が出てくるかもしれないので、そんなところにも気をつけておこうと思う。また、この台地が屏風に見えるのは牛久沼の東岸以外から眺めた場合なので、沼の北西南側での聞き取りも必要と思う。
[2008.11.04(Tue) 10:45] お城情報Trackback(0) | Comments(6)
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COMMENT

by 五郎
ひづめさんによる地理的、地形的な検証は十分納得できます。私も間違いないような気がしてきました。後は文献探しと聞き込みですか。
手始めは明治の迅速図あたりがすぐに見られるでしょうが、もう確認済みですか。「屏風ヶ崎」の地名までは期待できませんが鉄道が通る前の地形がわかるかもしれませんね。

by ひづめ
迅速図はまだ未確認です。それと、牛久沼周辺での聞き取り、五郎さんもお願いします。

by 五郎
きょう牛久の図書館で迅速図を見てきました。
やはり屏風ヶ崎の地名はどこにも書いてなかったですが、崩される前の地形は確認できました。想像したとおり鳥の嘴状に神社まで伸びていたようです。高さもと同時にその薄っぺらな地形も屏風のようなイメージだったのかもしれませんね。
道で年寄りに出会ったら聞いてみようと思ったのですが、出会いませんでした。なかなか家を訪ねてまでは聞きづらいですね。また機会があったら城中辺りを歩いて年寄りを捉まえてみます。

by ひづめ
五郎さん、ありがとうございます。
 牛久図書館には迅速測図があるのですか。いいですね。近辺だけでしょうか?

 航空写真からの推測通り、鳥のくちばしみたいに薄っぺらでしたか。西側辺縁はどうだったでしょうか。ほぼ航空写真で見られる現在のラインでよろしいでしょうか。南西側に土塁らしきものを見つけた部分って、高所恐怖症の私には見下ろせないような断崖絶壁だったのですが、それは土取によるものかあるいはもともとの地形なのか、迅速測図ならば答えがありそうです。もともと断崖絶壁であればますます屏風のように立ち上がっている様に近づきます。

by 五郎
迅速図はたしか関東地方一円が揃っていたと思います。近辺を見ただけですが、中世城郭でそれなりに図示されているのは牛久城、木原城、小幡城くらいでしたよ。

5万分の1ですから細かいところまでは読み取れませんが、ほぼ航空写真から想像されるとおりだと思います。予想以上に細かった印象ですが。
南側の土塁の場所(墓地の先でしょうか)も見てきたのですが、私には確実な土塁は認識できませんでした。崖は若干削られているみたいですね。

by ひづめ
辺縁が若干高く盛り上がって見えたのですが土塁ではないのかな。

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ひづめさんによる地理的、地形的な検証は十分納得できます。私も間違いないような気がしてきました。後は文献探しと聞き込みですか。
手始めは明治の迅速図あたりがすぐに見られるでしょうが、もう確認済みですか。「屏風ヶ崎」の地名までは期待できませんが鉄道が通る前の地形がわかるかもしれませんね。
[ 2008.11.04(Tue) 22:32] URL | 五郎 #UN5IrTYE | EDIT |

迅速図はまだ未確認です。それと、牛久沼周辺での聞き取り、五郎さんもお願いします。
[ 2008.11.05(Wed) 00:12] URL | ひづめ #MLEHLkZk | EDIT |

きょう牛久の図書館で迅速図を見てきました。
やはり屏風ヶ崎の地名はどこにも書いてなかったですが、崩される前の地形は確認できました。想像したとおり鳥の嘴状に神社まで伸びていたようです。高さもと同時にその薄っぺらな地形も屏風のようなイメージだったのかもしれませんね。
道で年寄りに出会ったら聞いてみようと思ったのですが、出会いませんでした。なかなか家を訪ねてまでは聞きづらいですね。また機会があったら城中辺りを歩いて年寄りを捉まえてみます。
[ 2008.11.05(Wed) 17:35] URL | 五郎 #UN5IrTYE | EDIT |

五郎さん、ありがとうございます。
 牛久図書館には迅速測図があるのですか。いいですね。近辺だけでしょうか?

 航空写真からの推測通り、鳥のくちばしみたいに薄っぺらでしたか。西側辺縁はどうだったでしょうか。ほぼ航空写真で見られる現在のラインでよろしいでしょうか。南西側に土塁らしきものを見つけた部分って、高所恐怖症の私には見下ろせないような断崖絶壁だったのですが、それは土取によるものかあるいはもともとの地形なのか、迅速測図ならば答えがありそうです。もともと断崖絶壁であればますます屏風のように立ち上がっている様に近づきます。
[ 2008.11.05(Wed) 18:00] URL | ひづめ #MLEHLkZk | EDIT |

迅速図はたしか関東地方一円が揃っていたと思います。近辺を見ただけですが、中世城郭でそれなりに図示されているのは牛久城、木原城、小幡城くらいでしたよ。

5万分の1ですから細かいところまでは読み取れませんが、ほぼ航空写真から想像されるとおりだと思います。予想以上に細かった印象ですが。
南側の土塁の場所(墓地の先でしょうか)も見てきたのですが、私には確実な土塁は認識できませんでした。崖は若干削られているみたいですね。
[ 2008.11.05(Wed) 21:19] URL | 五郎 #UN5IrTYE | EDIT |

辺縁が若干高く盛り上がって見えたのですが土塁ではないのかな。
[ 2008.11.06(Thu) 22:19] URL | ひづめ #MLEHLkZk | EDIT |

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