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2013年01月02日 ()
この年末年始も仕事の途切れることは無かったが、その隙間を縫ってお城始めに行って来た。

■小金城
1301021.jpg障子堀 小金城の障子堀、畝堀と言えばけっこう有名なのに、こんなに埋もれさせてしまっていては城趾公園整備として失格だな。

1301022.jpg畝堀 畝は、、、見えない。

■国府台城
1301023.jpg古墳を利用した土塁 過去の公園整備過程で改変されたのか、城郭遺構としてのまとまりが全く分からない。

1301024.jpg江戸川の向こうにスカイツリーが眺められる。

■矢切の渡し
1301028.jpg正月なので多くの人がやってきている。

1301025.jpg新葛飾橋の渋滞を眺めながら、帝釈天へ行くならこちら側に車を停めて矢切の渡しで柴又へ渡るのが賢明に思えた。

■国分城
1301026.jpg古代の下総国分寺のあった舌状台地は戦国時代には国分氏の本城となっていたらしい。佐原の領主国分氏の本願の地でもある。

1301027.jpg現在、台地上は住宅地となりわずかに残る巨大な土塁が往時を偲ばせる。
[2013.01.02(Wed) 21:13] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(6)
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「国府台城の謎」の件で by 松戸@住人
第一次国府台合戦(相模台の合戦)に興味を持っているものです。宜しくお願いします。
 さて、時々「相模台の合戦」について調べていると、「国府台城の謎を追う」のサイトに行きつき事があります。「藪ログ」さんはこの記事の書き手なのでしょうか?非常に城郭史に詳しい方が書かれていることは間違いないと感心するのですが、「相模台の合戦」に関する記述は、残念がら、最新の歴史資料に照らすとやや疑問の残る内容となっていると感じてしまいます。(最新の歴史考察は『松戸市史』最新版の当該記述をご参照下さい)
 私が残念に思うのは、「小弓公方討死の地は相模台城なのか」の記述中の『国府台の2km北に松戸の台(松戸城跡・・・現戸定邸)があり、そのさらに3km先が相模台である。そこからさらに3km北側に本土寺がある。本土寺から見ると、この合戦は、近所で起こった戦であり、特に本土寺から見れば、戦闘の卑近地が相模台であったので、この戦いを相模台合戦と呼ぶようになったのではないだろうか。』という箇所です。
 松戸の住人としては、城郭史及び歴史的考証の見事な考察を披瀝されているのに「感動」するのに匹敵する位、「相模台の位置」の認識の誤りに「落胆」するのです・・・。
 松戸市歴史博物館の研究員の話では、「相模台の合戦」に関する信頼に足る歴史的資料は三つしかないというのが、研究者間の一般的認識であると言われていました。
 その一つである『小弓御所様御討死戦物語』では、小弓公方は、氏綱の「先勢が打上」げた「松戸の臺という山」より「物近」き「高き峰」に陣を置いたと書かれています。しかし、この「高き峰」が相模台かどうかは定かではありません。
 ただ、『戦物語』の詳細な合戦描写をみると、北条勢は「馬廻り」衆が合戦の勝敗を決めたようです。(北条勢の強さはこの騎馬衆にあるようです)。とすると、最終合戦場は松戸台と相模台の間の畑地か「陣ヶ前」や「矢切」の台地上の平坦地と考える他ありません。(「伸び行く松戸」:http://www.honcho-matsudo.com/ehagaki2.htmの鳥瞰図をご参照)
 先の研究員の方は『本土寺過去帳』に「相模台」と書いてあるのだから、歴史研究者としては「相模台」と考えるのが「善」とすべきであるとか言っていました。私は「素人」ですが、「松戸の住人」としては、北条勢と義明公方勢は「相模台」において「堂々と一戦を交えた」と考えています。『戦物語』では、『さすが小弓様も日の下の将軍御心掛けの事ならば、一族も御身立ち退かず。戦いの勝劣は世の習いなれば、定めなくして御所様負けさせ給うものなり』と書かれています。「藪ログ」さんのお考えとは異なりますが、ご参考までに書かせて頂きました。それでは。

by ひづめ
松戸@住人さん、初めまして。
残念ながら私は「国府台城の謎を追う」の著者ではありません。それを書かれたのは友人の余湖さんです。そのページの一番下の「トップページへ戻る」をクリックされれば『余湖くんのホームページ』だということがお分かりになると思います。本件につきましては、そちらの「掲示板&更新情報」へ書かれるのが最善かと思います。よろしくお願い致します。

有難うございます by 松戸@住人
慌ててしまい、失礼致しました。
『余湖くんのホームページ』に投稿するかどうかは、悩ましいところです。誤りを指摘されることは、誰でも嫌なものでしょう。『知らずにいることが良いこともあります』ということで、無理に指摘しないことに致します。それでは。
 

別の問題で、質問させて下さい by 松戸@住人
松戸@住人です。
「藪ログさん」も城郭史に相当詳しい方なので、ひとつ、質問させて下さい。
 このブログにもあるように、大田道灌が「取り立てた」という国府台城は、それこそ数知れないほどの記事があります。しかし、古くからの歴史のある市川には、本格的な城郭があったようには思えないのです。高城氏の大谷口小金城に匹敵する位の城郭があってもおかしくないはずなのですが・・・。何故でしょうか。私の日頃から抱いている疑問です。何か理由らしきものがあったら、教えて貰えにないでしょうか。宜しくお願い致します。

by ひづめ
松戸@住人さん

>誤りを指摘されることは、誰でも嫌なものでしょう。『知らずにいることが良いこともあります』ということで、無理に指摘しないことに致します。
 大丈夫ですよ、最初は私を著者と思ってご指摘されたのですから、同じではないですか。

>古くからの歴史のある市川には、本格的な城郭があったようには思えないのです。高城氏の大谷口小金城に匹敵する位の城郭があってもおかしくないはずなのですが・・・。何故でしょうか。
 私は地元でもないですし、ほとんど歩いたこともない地域のことで、お答えする何をも持ち合わせません。こういう問いこそ、余湖さんへ投げかけることをお勧めします。

ご返事有難うございます by 松戸@住人
松戸@住人です。
 この数日、沖縄旅行に出かけていたので、お礼が遅れてしまいました。アドバイス有難うございます。また、機会がありましたら宜しくお願いします。

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第一次国府台合戦(相模台の合戦)に興味を持っているものです。宜しくお願いします。
 さて、時々「相模台の合戦」について調べていると、「国府台城の謎を追う」のサイトに行きつき事があります。「藪ログ」さんはこの記事の書き手なのでしょうか?非常に城郭史に詳しい方が書かれていることは間違いないと感心するのですが、「相模台の合戦」に関する記述は、残念がら、最新の歴史資料に照らすとやや疑問の残る内容となっていると感じてしまいます。(最新の歴史考察は『松戸市史』最新版の当該記述をご参照下さい)
 私が残念に思うのは、「小弓公方討死の地は相模台城なのか」の記述中の『国府台の2km北に松戸の台(松戸城跡・・・現戸定邸)があり、そのさらに3km先が相模台である。そこからさらに3km北側に本土寺がある。本土寺から見ると、この合戦は、近所で起こった戦であり、特に本土寺から見れば、戦闘の卑近地が相模台であったので、この戦いを相模台合戦と呼ぶようになったのではないだろうか。』という箇所です。
 松戸の住人としては、城郭史及び歴史的考証の見事な考察を披瀝されているのに「感動」するのに匹敵する位、「相模台の位置」の認識の誤りに「落胆」するのです・・・。
 松戸市歴史博物館の研究員の話では、「相模台の合戦」に関する信頼に足る歴史的資料は三つしかないというのが、研究者間の一般的認識であると言われていました。
 その一つである『小弓御所様御討死戦物語』では、小弓公方は、氏綱の「先勢が打上」げた「松戸の臺という山」より「物近」き「高き峰」に陣を置いたと書かれています。しかし、この「高き峰」が相模台かどうかは定かではありません。
 ただ、『戦物語』の詳細な合戦描写をみると、北条勢は「馬廻り」衆が合戦の勝敗を決めたようです。(北条勢の強さはこの騎馬衆にあるようです)。とすると、最終合戦場は松戸台と相模台の間の畑地か「陣ヶ前」や「矢切」の台地上の平坦地と考える他ありません。(「伸び行く松戸」:http://www.honcho-matsudo.com/ehagaki2.htmの鳥瞰図をご参照)
 先の研究員の方は『本土寺過去帳』に「相模台」と書いてあるのだから、歴史研究者としては「相模台」と考えるのが「善」とすべきであるとか言っていました。私は「素人」ですが、「松戸の住人」としては、北条勢と義明公方勢は「相模台」において「堂々と一戦を交えた」と考えています。『戦物語』では、『さすが小弓様も日の下の将軍御心掛けの事ならば、一族も御身立ち退かず。戦いの勝劣は世の習いなれば、定めなくして御所様負けさせ給うものなり』と書かれています。「藪ログ」さんのお考えとは異なりますが、ご参考までに書かせて頂きました。それでは。
[ 2015.12.25(Fri) 01:14] URL | 松戸@住人 #- | EDIT |

松戸@住人さん、初めまして。
残念ながら私は「国府台城の謎を追う」の著者ではありません。それを書かれたのは友人の余湖さんです。そのページの一番下の「トップページへ戻る」をクリックされれば『余湖くんのホームページ』だということがお分かりになると思います。本件につきましては、そちらの「掲示板&更新情報」へ書かれるのが最善かと思います。よろしくお願い致します。
[ 2015.12.28(Mon) 19:23] URL | ひづめ #MLEHLkZk | EDIT |

慌ててしまい、失礼致しました。
『余湖くんのホームページ』に投稿するかどうかは、悩ましいところです。誤りを指摘されることは、誰でも嫌なものでしょう。『知らずにいることが良いこともあります』ということで、無理に指摘しないことに致します。それでは。
 
[ 2015.12.29(Tue) 00:08] URL | 松戸@住人 #- | EDIT |

松戸@住人です。
「藪ログさん」も城郭史に相当詳しい方なので、ひとつ、質問させて下さい。
 このブログにもあるように、大田道灌が「取り立てた」という国府台城は、それこそ数知れないほどの記事があります。しかし、古くからの歴史のある市川には、本格的な城郭があったようには思えないのです。高城氏の大谷口小金城に匹敵する位の城郭があってもおかしくないはずなのですが・・・。何故でしょうか。私の日頃から抱いている疑問です。何か理由らしきものがあったら、教えて貰えにないでしょうか。宜しくお願い致します。
[ 2015.12.29(Tue) 00:25] URL | 松戸@住人 #- | EDIT |

松戸@住人さん

>誤りを指摘されることは、誰でも嫌なものでしょう。『知らずにいることが良いこともあります』ということで、無理に指摘しないことに致します。
 大丈夫ですよ、最初は私を著者と思ってご指摘されたのですから、同じではないですか。

>古くからの歴史のある市川には、本格的な城郭があったようには思えないのです。高城氏の大谷口小金城に匹敵する位の城郭があってもおかしくないはずなのですが・・・。何故でしょうか。
 私は地元でもないですし、ほとんど歩いたこともない地域のことで、お答えする何をも持ち合わせません。こういう問いこそ、余湖さんへ投げかけることをお勧めします。
[ 2016.01.02(Sat) 18:48] URL | ひづめ #MLEHLkZk | EDIT |

松戸@住人です。
 この数日、沖縄旅行に出かけていたので、お礼が遅れてしまいました。アドバイス有難うございます。また、機会がありましたら宜しくお願いします。
[ 2016.01.04(Mon) 15:37] URL | 松戸@住人 #- | EDIT |

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